破局的な巨大火砕流から9万年を経て、彩り豊かに蘇った大地の軌跡。
豊後大野の人々は、阿蘇火砕流に刻まれた深い谷を渡るために、豊富に存在する溶結凝灰岩を利用して石橋を築くとともに、川を交通路として利用するための水路や港を造りました。また自然の地形を利用してさまざまな文化が芽生えました。
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轟橋は昭和9年に森林鉄道の橋として架けられた2連のアーチ式石橋で、広いほうの径間(アーチの幅)が32.1mと日本一を誇ります。一方、出会橋は大正13年に架けられ、径間が29.3mと日本第二位です。下を流れる奥岳川の両岸には、阿蘇火砕流の溶結凝灰岩からなる見事な柱状節理が見られます。(増水時は河原に降りないで下さい。)
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石風呂とは岩穴の中に蒸気を充満させて入浴する蒸し風呂の一種です。約12万年前の阿蘇火山の3回目の火砕流の溶結凝灰岩に、崖の形をうまく利用して造られています。崖には阿弥陀如来を表す梵字が彫られており、仏教に関わる施設であったことがうかがえます。
神角寺は千年以上の歴史を持つ古刹です。約1,500万年前の溶結凝灰岩の柱状節理からなる尾根上に立地しているため、大変眺めがよく、そのためしばしば戦いの拠点としても利用されてきました。境内にはたくさんのシャクナゲが植えられており、シーズンには多くの見物客でにぎわいます。
犬飼港は、江戸時代の初めごろに造られた川港です。当時、大野川の上流に領地のあった岡藩は、下流の三重町付近が臼杵藩の領地であったため、この犬飼までは陸路を移動し、ここから船で大分方面に向かっていました。河床には切り立った硬い地層が露出していたため、溶結凝灰岩の切り石を平らに敷き詰めています。(増水時は川に近づかないようにして下さい。)
谷を渡る虹のような橋という意味で、江戸時代の後期、文政七年(1824年)に完成しました。当時としては日本最大の石橋で、臼杵藩であった三重の町と臼杵城下を結ぶ街道の難所を克服するため、地元の豪商が資金を出し合って建造しました。堅牢かつ美しい石橋で、国の重要文化財に指定されています。
大野川本流にかかる高さ約10mの滝で、こうもりが翼を広げているように見えることから名づけられたと言われています。明治時代、大野川に舟を通して物資を輸送するために、この滝を迂回する水路と、舟を上げ下げするすべり台のような樋が造られました。(現在、河床には降りることができません。展望台からご覧下さい。)